・1993年8月2日
本日は澳門へのツアーへ参加することになる。パンダバスは我々が宿泊しているEATON
HOTELまではピックアップに来てくれないので、サービス対象となっているペニンシュラホテルまで行かなければならない。しかし二つのホテルは結構離れている(地下鉄で一駅)のではやく準備しなければ行けないと前日までは考えていた。
でも当日起きるとすでに集合時刻が迫っているではないか! 我々は朝食もとらずホテルを飛び出した。Jordan駅に飛び込むと幸いすぐにMTR(地下鉄)が来た。となりのTsim
Sha Tsuiまではあっという間だ。MTRを飛び降りた我々は一目散にホテルを目指す。集合場所のロビーに飛び込んだのは丁度集合時間だった...
澳門へは高速船で移動することになる。かつてこの手の船でひどい目にあったことがあるが、今回は何事もなく無事澳門に到着した。澳門での第一目的「カジノでもうける」は夢に終わったとだけ書いておこう...
澳門は中国とポルトガルが入り交じった不思議な場所で、香港とはまた違った雰囲気の街である。外周道路はマカオグランプリ用につくられているので、街全体がレース場のような雰囲気もある。さらにここには土産物屋がない! おかげで無駄な時間は一切なかった。
ツアーガイドはお年寄りだったのが、昔日本にいた(強制連行)ことがあるということだった。「最近の日本の若者はダメになった」としきりに説教をされていた。どうも長髪がお気に召さないようだ。さて香港に戻ってきたのは午後3時過ぎ。まだまだ時間がある。
ということで、資金は調達できなかったが「AT互換機」を見るためにMongKokに向かう。こちらのパソコンショップでは、各店オリジナルのマシンを販売していて(今でこそ日本でも普通になったが、当時はあまりなかった)自分で好みのパーツと変更する事もできる。当時の主流はDX4マシンだったが、高級機として586(Pentium)採用マシンも販売されていた。
それぞれのお店ではパーツ組み合わせと価格を列記したチラシを配っており、それをみて組み合わせを交渉するというパターンである。いくつかの店には日本の雑誌記者(EYE
COMやASCII)が来たといったことが書かれていたりして日本人向けに売り込みをしているところが多かった。
私が聞いた店では、週に1人は日本人に販売しているとのことだった。結局私は購入しなかったのだが、当時の価格で日本より2割程度安価であった。従ってこれだけを目的に香港を訪れると結果として損をするのは間違いがない。当然ながらOSはすべて英語であるし、マニュアルなど存在しない。さらに日本での使用を前提としていないので保証はない。といった状況である。
当日もあまり天気はよくなかったのだが、この日が最後となるためビクトリアピークへと向かった。ここに至るにはピークトラムというケーブルカーを利用するかあるいはバスを利用することになる。(後日ピークトラム路線横の階段を駆け上がるという手段もあることを某TV番組でダチョウ倶楽部が実践していたけど)
トラムの山頂駅からしばらくいくとビューポイントがある。確かに綺麗な夜景である。でもここへは野郎二人で来るべきではないよな。虚しくなってしまった。さらにせっかく日本からもってきた三脚をホテルに忘れてきてしまった。(というわけでこの写真は手持ちで撮影したものです。だからちょっとぶれている)
ビクトリアピークから降りてきた我々を待っていたのは「貧乏」だった..気がつけば二人が持っている香港ドルを合わせても100HK$程度しかない。
これは当時のレートで1400円程度。晩御飯を食べるには少し心もとない金額である。そこで我々は
(1)カードが使える高級店にいく
(2)これで足りそうな店を探す
という選択を迫られることになった。(1)は前日に贅沢をしていたのでパス。ということで(2)を選択した。結局そこそこ大きい店でなおかつ人がたくさん出入りしている店を選択することにした。今となっては場所も思い出せないのだが、2人のコースで70HK$程度でスープ(犬のエサ入れのようなプラスチックの器になにかの骨が転がっている=多分牛だろう)と多分牛肉の炒め物、なにかの肉(鳥?)の炒め物それにライスがついていた。結構おいしかったのだが、結局なにの肉かはわからずじまい。特に二皿目が鳥のようで鳥でなかったので、もしかするとなにか他の肉だったのかもしれない。その後おなかを壊すこともなかったので、まあ大丈夫だったのでしょう。
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